… ペルリ提督は →
1853年5月に那覇港を基点に日米交渉の計画を建て、日本の浦賀港に向かい、1854年3月に日米和親条約を結び → 同年7月に琉米修好条約を結んでいました。
… 江戸時代に →
1度め日米和親条約 → 2度め日米通商修好条約という日米条約 (不平等条約) を結んだ。1度め日米和親条約は、大老・井伊直弼 (なおすけ) という人物で。後ほど直弼 (なおすけ) は、天皇の許可なく勝手に日米条約 (不平等条約) を結んだ として亡ぼされてしまったようです。
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またその背景には ✽
徳川家 (一橋派) と徳川家 (南紀派) の派閥争いも複雑に絡んでいた?との説も見られます。
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ペルリ提督が日本の浦賀に交渉中、那覇の港にはペルリ艦隊の船が停泊。レキシントン号と呼ばれる船で沖縄島に上陸する水兵もいて。
なかには、酒を求めて民家におし入ったり、女性をからかい住民からヒンシュクを買う水兵たちもいたといいます。
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ウィリアム・ボード事件 →
http://rca.open.ed.jp/history/story/epoch4/syobun_3.html
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後ほど、
日本 〜 琉球に戻って来たペルリ提督は、ボード事件を知り大激怒。さっそく『琉米修好条約』を起動させ、琉球王府に真相究明と犯人の処罰を求めて米国側立会いのもと裁判を開かせました。
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裁判の結果、
主犯の「渡慶次 (とけし) カマ」と従犯の6人に流刑の罰を与えられます。
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その「裁判 / 刑」には謎があり、実際に琉球側は刑を執行せづ ⇔ 米国側 / ペルリ提督も琉球側が刑を執行したかどうか?という追求をしなかったようです。
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一説によると?
ペルリ提督も自分の部下 (ウィリアム・ボード) に否がある事を感じていたようで、刑執行の有無よりも『裁判の体裁』を整える事の方が重要であった?との説文も見られます。
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那覇の泊村には、漂着民の収容センターがあったので、島の各地で亡くなった多国籍の船員たちが眠るお墓があった。
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