これからする お話は、
表舞台ではなく裏舞台。マニアックで小さなマイナーお話ありますが、後ろの琉球史 → 後ろの日本史 → 後ろの高麗史 → ほかにも 巾広く結び付く物と考えております。
.
.
.
━↓─━─扉─━─↓━
.
.
.
母方の祖母は、
具志川村田場の人でありました。
その地は那覇市から車で1時間3?40分くらい。コレといった特徴のない田舎部落でありましたが、大きな庭と石垣に囲われた敷地内に古ぼけたコンクリート家や錆びたトタン家・赤瓦家など。並んでいました。
↓↑
家 / 建物は那覇市の一般的な家屋よりも劣るけど < 庭や石垣は大きく 庭と石垣 > 古ぼけた建物 アンバランスな家が何軒かありました。何もない田舎部落なので、那覇市よりも大きな庭と石垣があったのだと思います。
.
小学生ころ、
盆正月など。おばあさんの親族回りをすると、真顔で『自分たちの祖先は首里 (すい / 都) から来 (ちゅ) ーたん』と、自慢する親族が複数おり。幼いながらも『んな訳ない』とスルー (聞き流) していました。
.
.
… 沖縄には →
『祖先は首里人 (すいンちゅ) 』と、自慢する お年寄りが島のアチコチにたくさん。首里は1種のブランド名?思います。
↓↑
母さんも『その事』を信じているようで。素性の知れないユタ的な人とともに首里尚家の発祥地と云われる伊平屋島に『ウートートー』しに行ったりしていました。
.
.
―↓―↓―
.
.
大人になつて、
複数の書物を見てみると
首里尚家 ← 王族ではありませんが、それに仕えていた職業関係者に具志川村田場の人が複数見られたので、その可能性もゼロではないと思う事ありました。
↓↑
有名人物は、
━↓─━─扉─━─↓━
.
.
.
昔んかし、
琉球古典音楽の基礎を作ったと評される湛水親方いました。
.
唐名は夏徳庸 (か とくよう) 、和名は幸地賢忠 (こうち けんちゅう) 、童名は思次郎 (うみじらー) 。出家後の湛水親方 (たんすいウェーカタ) の名前で知られています。
踊奉行(おどりぶぎょう)は冊封や国王の年忌の際に臨時に任命される役職。式典で行われる舞踊や音楽などの監督する役職。
.
湛水親方は、
久しぶりに琉球に帰国した湛水親方は日本に負けぬよう琉球の古典的な芸能や音楽に重きを置いていたと云われています。
.
(・・; そのため;摂政 (総理大臣) の羽地朝秀の怒りに触れました。
.
羽地朝秀 :「お前は国費で日本の伝統芸能を学ばせたが、琉球の伝統芸能に重きを置くとは何事だ 」という怒りでした。
.
ー (・・? ー?→
.
湛水親方の時代、琉球の政治家には「知清派 (親中派) 」と『知日家 (親日派) 』という政治派閥があり、羽地朝秀は知日家で 日琉同祖論 の考えを持ち、秘密裏に日本の伝統芸能を奨励する同化政策を勧めていました。
.
.
三年後、
摂政 (総理大臣) の羽地朝秀 が亡くなると、再び茶道頭として首里 (都) に呼び戻されました。そのとき、仏門に入り 「湛水 (たんすい) 」 という名前になったようです。
.
―;→
.
(・・; 長文駄文で;
マニアックお話;これまで お話と後ろの日本史 → 後ろの高麗史 いったい何の結び付きあるのか 思う方もいると思いますが、古くから具志川村や越来村など。歴史の敗者の里であった事を紹介して見ました。
また長文駄文になります。
.
.
.
━↓─━─扉─━─↓━
.
.
.
その昔、
首里城の脇城として南風原 (はえばる) 村に具志川村田場から移住して来た具志川按司 (ぐしちゃーアンジ) によつて宮城 (みやグスク) が築城されました。
.
第1尚氏王統の最後の国王・尚徳王の母親である宮里阿護母志良礼 (みやざとアゴモしられ) は越来村宮里の人で、妃は具志川按司の娘であったようです。
.
王府史記 (琉球の歴史書) には、
.
… 琉球史では →
歴史の勝者は政治 ⇔ 敗者は祭祀 勝者は表舞台 ⇔ 敗者は裏舞台。という仕組みが見られるので、具志川村田場から移住して来た具志川按司 (ぐしちゃーアンジ) が築いた宮城 (みやグスク) も霊的空間として その後も機能したように思います。
.
.
首里区域に三平等 (ミフィラ) と呼ばれる霊的空間が整備されました。南風之平等 (フェーぬフィラ) 、北風之平等 (ニシぬフィラ) 、真和志之平等 (マージぬフィラ) 。
.
*異母兄弟
.
民間伝承によると、
崎山里主は那覇の辻村 (遊郭地) で働く妓女 (ジュリ) と察度王との間に生まれた子。那覇の波上宮に熊野権現を普及させた人物で、老後は首里の崎山町に隠居したといいます。
.
那覇の小禄村にある金満御嶽 (カニマンうたき) には、崎山門中の御嶽 (うたき) があるという。
.
崎山里主の母と姉は那覇に辻村で暮らし、亡くなったあと「辻遊郭開祖之墓」が建てられ、今でも『水商売の神』として崇められ、旧暦の廿日 (二十日) 正月の「ジュリ馬行事」の際に拝まれています。
崎山里主の母と姉は那覇に辻村で暮らし、亡くなったあと「辻遊郭開祖之墓」が建てられ、今でも『水商売の神』として崇められ、旧暦の廿日 (二十日) 正月の「ジュリ馬行事」の際に拝まれています。
.
―(・・? ―?→
.
内容は複雑していますが、
… 沖縄音では →
東 (アガリ / 上) 、西 (イリ / 入) 、
南 (フェー / はえ) 、北 (ニシ) 。
↓↑
北原 (ニシばる) は西原 (ニシはら) 、
北の門 → 北武門 (ニシんジョウ) は西武門 (ニシんジョウ) に転じています。
.
.
民間伝承によると、
.
から崎山里主が養子に来て大国子 (デークンしー) になった。との言い伝えがあるようです。
↓↑
大国子 (デークンしー) は大国大主 (デークンうふしゅ) の養子 後ほど大国子は天女と結婚 そして大国子は毎日釣りをするほど釣り好き 云われています。
.
―?→
.
(・・? 実はいうと?
南風原村には海が無いけど、大国子は毎日釣りをしていた伝承や大国大主 (デークンうふしゅ) の養子 大国子 (デークンしー) その名称や説話は日本の出雲神? 大国主命 (オオクニヌシ) 信仰と似ているようにも見えます。
.
ー(・・? ー?→
.
天女橋を渡ると、朝鮮から贈られた「方冊蔵経」(高麗版大蔵経)を納めるための経堂があったといいます。
↓↑その時代は、
首里区域に南風之平等 (フェーぬフィラ) 、北風之平等 (ニシぬフィラ) 、真和志之平等 (マージぬフィラ) 。三平等 (ミフィラ) と呼ばれる霊的空間が整備された時代と同時期 首里の南風之平等 (フェーぬフィラ) 〜 南風原 (ハエばる) 村の宮城 (みやグスク) にかけて区域は、崎山里主の活動拠点。
.
崎山里主は天女の子 → 察度 (さっと) 王の子で 後ほど崎山里主は宮城 (みやグスク) の大国大主 (デークンうふしゅ) の養子となり 大国子 (デークンしー) に その妻は天女であったという民間伝承。
.
… ある歴史家は →
天女伝説は荒唐無稽お話ではなく、重要な暗号が隠れている 天女の『天』は『北 (ニシ) 』から来た高麗系の女性を意味。天女の子 → 察度 (さっと) 王の時代は、中国は元朝 〜 明朝、王氏高麗 〜 李氏朝鮮、日本は南朝と北朝の南北朝時代。激動の時代でありましたので そうした余波が遠く離れた琉球政治にも波及していたでは? とも述べていました。
.
ー(・・? ー?→
.
ブログ内容もダイブ飛んでいますが、
それも天女の余波が及んで思います。
.
.
.
― → ―→
.
.
.