第2回 後ろの天女史

首里城正殿の火災後、
なぜか はてなマーク net上では、首里城の屋根瓦『赤色』ではなく  ⇔「黒色」であった。そのため、再建する際には原則通り忠実に「黒色」に。といった情報が流布。2014年に米軍が「カラー映像化」した白黒写真によると、戦前 (1945年) の首里城正殿黒い屋根瓦をしていた? という情報が火災後たくさん流れていました。

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 ー コメント欄 ー

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上記のカラー写真はモノクロ写真に絵の具を塗った偽物写真と判明。首里城は米軍の空襲によつて焼失、米軍が撮影した首里城は『上空』から撮影した物 ⇔ 上記の写真は「地上」から撮影ように見えます。

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2019年12月16日
沖縄タイムス電子版 →
首里城火災後、インターネット上で「首里城の瓦の色は戦前は日本風の黒だった」という主張が展開されている。「黒」の証拠として掲載された戦前の正殿の写真はモノクロの画像に着色したもので根拠に薄い。瓦の研究者は、琉球では16世紀後半から中国系の灰色 (黒) の瓦が焼かれていたが、17世紀末から赤瓦に移行し、灰色の瓦は19世紀初めには生産されなくなったと推定する。学術的には復元のモデルとなった時代から戦前までの首里城正殿の屋根は赤というほかなさそうだ。(社会部・城間有)

 「黒」の根拠として掲載されている資料の一つが、琉球大学付属図書館所蔵の「ブール文庫」にある「琉球国王の城」とキャプションがついた写真。この写真を掲載し「首里城は戦前の姿から中国人好みに捏造されていた」「本来の姿に再建を」などの主張がみられる。

◆戦前の職人の証言
 「赤瓦から灰色の瓦にふき替えられたという記録も伝承もなく、戦前の瓦は赤だったという職人の証言もある」とし、戦前に写真が撮られた時点も正殿の屋根は赤瓦でふかれていた、とした。また、正殿奥の御内原 (うーちばる / 後宮)  エリアで、マンガン釉 (ゆう) で黒く塗った赤瓦が見つかったことから正殿の瓦が黒かったと推測する投稿に対しては、「正殿の屋根をふくには数が少ない。戦前、首里城沖縄神社にした時、拝殿としての正殿の奥に、神殿などの黒い瓦をふいた小さな建物を造ったのではないか」と推測した。
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首里城正殿
1989 (平成) 年11月に工事着手、
2019 (令和) 年10月31日に焼失。
テレビ 平成元年の再建前にも「黒瓦 ⇔ 赤瓦騒動があったという。

net 上では、
「黒瓦日本色 ⇔ 赤瓦中国色といった発想が見られましたが、中国にも黒瓦は存在し ⇔ 日本にも赤瓦が存在していたようです。

ご迷惑をおかけします 首里城の屋根瓦は ご迷惑をおかけします
黒瓦 (高麗瓦) が 赤瓦 (琉球瓦) に転訛した物。時代によつて、中国系の「黒瓦 / 赤瓦』が使用されていた時代、板葺き時代もあるけど。戦前の首里城は赤瓦を乗せていた事は確かだといいます。

ハムスターまたまた 足あと
黒瓦高温を要し ⇔ 赤瓦低温で表現できるので、
黒瓦木材が多く必要 ⇔ 森林不足に悩まされた琉球での赤瓦エコの色であったと云われています。

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それにしても?首里城正殿  「向拝」色彩論争?など。
なぜ はてなマーク 首里城正殿「向拝」と呼ばれていたのか?気になる事がありました。

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首里城正殿の火災後、
News番組で「こんな問いかけ」が上映されていました。

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テレビあなたにとつて首里城は何ですか?
   ⇔
(・・? それは巨大な美術工芸品?
学校の遠足や観光収入の建物?など。あまり深く考え事ありません。また自分の父さんは、定年前に観光バスの運転手をしており。何度も観光客や修学旅行生を首里城公園まで連れて行っていたけど、1度も首里城正殿 (有料区間) を見た事がない。という。
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沖縄県民の中にも、
首里城にまったく関心がない人がたくさんいると思います。

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首里城正殿の火災後、

テレビ 特集番組で首里城正殿御辞儀 (おじぎ) をする女学生たちの姿が上映されていました。
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テレビ 戦前の女学生たちは首里城正殿深く御辞儀しており 目 昔と今の首里城正殿はダイブ印象が異なるように思いました 目

ご迷惑をおかけします 今日では ご迷惑をおかけします
首里城正殿御辞儀 (おじぎ) する人はいませんが、戦前の首里城正殿は「王様」と『神様』の「一体化』にな゙ってたようです。

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首里城正殿の唐破風造りは ∩ 非常に宗教色の強い建物であった事を載せて見ました。

首里城正殿は ∩ お墓や霊柩車 ∩ 銭湯 (極楽浄土の湯) 、お神輿など。宗教色を含んだ物の形に似ています。
銭湯 ← 極楽浄土  天国の湯 天使

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ご迷惑をおかけします 端的に言うと ご迷惑をおかけします
琉球王国」は王法と仏法が一体化した「仏教王国」でありました。
首里城の梵鐘は円覚寺の梵鐘を由来 てんびん座 首里城正殿も仏教的な宗教色を含んでいたと思います。

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首里城正殿は、
琉球時代は仏教的 てんびん座 明治12年 〜 神道的な施設 (沖縄神社) になっていたようです。

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前回お話 と 今回お話 てんびん座 いったい何の関係があるのか?思う方もいるかもしれません。自分の解釈では、首里城朱色を高めた時代があり 長音記号2 その時代儒教な中国文明と道教な日本文明あったと考えています。

ご迷惑をおかけします 道教死生観では ご迷惑をおかけします
朱色は非常に重要なアイテム。浦島太郎伝説にも、道教な神仙思想 → 常世の国・不老不死の仙薬 (丹薬など。見られます。

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首里城朱色を高めた時代の日本は、2つの「朝」と てんびん座 2つの『京』がありました。

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2つの「朝」→
1つは北朝 てんびん座 2つは南朝

2つの『京』→
1つは本京都 てんびん座 2つは西の京

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首里城朱色を高めた時代 →
16世紀 / 嘉靖年間 (1522 ‐ 66年) 、
中国はの時代、沖縄島に瓦職人 (中国人) が渡って来ました。
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中国名は解りませんが、
瓦職人は渡嘉敷三良 (トカシチさんらー) と呼ばれていました。おそらく、の元号・の「+ 島 (地) にて来たから渡嘉敷?思われます。
渡嘉敷三良は帰化して琉球人に。那覇市牧志の緑ヶ丘公園に三良 (さんらー) のお墓があります。

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(・・? 関連してるか?
日本海は『石見国』にも赤瓦の文明があり、そのほか『若狭国』や『丹の国』『越の国』方面にも道教浦島太郎伝説、天女伝説はてなマーク漆器丹薬ベンガラなど。朱色の文明が見られました。
✽朱色道教的死生観の重要アイテム
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若狭の鳥浜貝塚では縄文時代の「朱色の漆塗り櫛」が出土。

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ハムスターまたまた 足あと
『石見国』方面には大国主信仰や石見銀山とも接点を持ち。後ほど → 石見銀山の資源が輸出禁止になると 自転車 アイヌ産の海産物 (昆布やフカヒレ等) が越の国 〜 薩摩国 → 琉球国を経由して 長音記号2 中国貿易に結び付きます。

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ご迷惑をおかけします 前回お話 ご迷惑をおかけします
崎山里主天女の子 → 察度 (さっと) 王の子で 天使 後ほど崎山里主宮城 (みやグスク) 大国大主 (デークンうふしゅ) の養子となり 長音記号2 大国子 (デークンしー) と呼ばれ 天使 その妻は天女であったという民間伝承。

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ある歴史家は、
天女伝説は荒唐無稽お話ではなく、重要な暗号が隠れている 天使 天女の『』は北 (ニシ) 』から来た高麗系の女性を意味。天女の子 → 察度 (さっと) 王の時代は、中国は元朝 〜 明朝、王氏高麗 〜 李氏朝鮮、日本では南朝と北朝の南北朝時代。激動の時代でありましたので 波 そうした余波が遠く離れた琉球政治にも波及していたでは? とも述べていました。

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首里城朱色を高めた時代 →
その時代は琉球に熊野信仰再興された時代でありました。

時代は飛びますが、歴史は何度も繰り返しデジャブする事で 自転車 琉球への熊野信仰の「初興」は崎山里主 (大国子 / デークンしー)  てんびん座『再興』は日秀上人という僧侶が熊野信仰を普及。

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熊野信仰の初興・崎山里主の時代は、
南北朝の合一 / 室町幕府の3代将軍・足利義満の時代。南北朝の合一にも 自転車 熊野方面には後南朝 と呼ばれる『朝』が存続という民間伝承もあったようです。
熊野信仰の再興・日秀上人の時代は、
足利義満の子孫 (本京都) と 大内義弘の子孫 (西の京) が拮抗関係にあった時代です。
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波上山波上宮熊野信仰が普及 →
熊野信仰の初興・崎山里主
熊野信仰の再興・日秀上人
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その時代は神仏習合時代で てんびん座 護国寺 (真言宗) と 波上宮 と 那覇の辻村 (遊郭地) はSet関係で整備。 
前 (崎山里主の時代) にも 後 (日秀上人の時代) にも てんびん座 その3点は重要な関連性が見られます。

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波上山護国寺 (真言宗) は 長音記号2 高野山や熊野の根来寺と結び付くお寺。南北朝時代ころ、薩摩国の一乗院 (真言宗) から頼重法印という僧侶が来沖して琉球に開山。当時、薩摩国の一乗院は熊野の根来寺と結び付く 長音記号2 別院であったといいます。
南北朝の合一時代ころ、
崎山里主頼重法印が登場 てんびん座 護国寺 (真言宗) と 波上宮 と 那覇の辻村 (遊郭地) はSet関係で整備。 大国子 (デークンしー) こと崎山里主天女の子 → 察度王の子で 天使 その妻も天女であったという民間伝承。
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あれから数年後、
日秀上人が来沖した嘉靖年間 (1522 ‐ 66年) は、第二尚氏王統の4代・尚清 王 (1527~55) の時代。琉球に熊野信仰再興され首里城朱色を高めて行きます 自転車
そのは鉄砲伝来時代でもあり 長音記号2 熊野の根来 (ねごろ) 寺は根来衆 (鉄砲衆) とも関連していたようです。
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その時代に上綾門 (通称・守礼門も創建。
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守礼門儒教な「で てんびん座 道教な『をしているように思います。

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ハムスターまたまた 足あと
首里城朱色を高めた嘉靖年間 (1522 ‐ 66年) に 爆弾 本京都 と 西の京 が衝突。
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1523 (嘉靖2) 年、
商業都市・明州府で寧波の乱 (ニンポーの乱) が起きた。

寧波の乱は、明州府 (浙江省寧波市) で起きた日本人どうしの大乱で、細川氏 (本京都) 率いる堺商人と大内氏 (西の京) 率いる博多商人 が衝突した事件。

✽事件後に日明貿易は縮小

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ハムスターまたまた 足あと
首里城朱色を高めた嘉靖年間 (1522 ‐ 66年) に 爆弾 琉球では正室側室が衝突していました。
本当は王様になる予定だった尚維衡 (正室の子) は廃嫡 ⇔ 側室の子であった尚清王が、第二尚氏王統4代・国王として即位しました。

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琉球では →2回連続 → 側室の子が国王として即位ため、礼的儒教に重きを置く明朝は、琉球は『が不足している』と嫌疑がかかり、8年ほど「朝貢貿易 龍 臣礼関係が止まったと云われています。
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その尚清王 (1527 ー 1555年) の時代に建てられた建物が上綾門 (通称・守礼門ほかにも、より一層の朱色漆器文化が琉球に進展、朱色工芸品建築物も増えます。

守礼門儒教的な「形」で てんびん座 道教的な『色』に思います。

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ご迷惑をおかけします 礼的儒教では ご迷惑をおかけします
三間牌楼 (さんけんはいろう) 形式の門があり、守礼門儒教的な孔子廟や東大の正門?ように三間牌楼形式に作られているようです。
東大の正門孔子廟
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東大の正門は文京区に。その語源は文 (ふみ) の京 (みやこ) 。江戸幕府の官学府・昌平坂学問所を由来と云われています。
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昌平坂学問所の語源は、
儒教の祖・孔子が生まれた山東省曲阜市昌平郷

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詳しくは解りませんが、
東大には正門赤門があり てんびん座 東大の赤門加賀国を由来としているようです。
ー?→

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(・・? 実はいうと?
琉球に熊野信仰を再興させた日秀上人 (出家前は富樫氏) も加賀国の人なので てんびん座 東大の赤門朱色守礼門は共通性があるかもしれません。

目 東大の赤門も霊柩車やお墓の形と似ています 目

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ご迷惑をおかけします 毎度こと ご迷惑をおかけします
長文駄文ブログなっていますが、
朱色はダルマの色?ダルマの朱色も魔除けの色。
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ご迷惑をおかけします その源泉は ご迷惑をおかけします

ペルシア由来のミトラス教 (ミトラ神) が弥勒教マニ教に転じ 自転車 疫病神の牛頭天王 (ゴズてんのう) や →

魔除け赤べこにも転じているように思います。

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後ほど儒教に重きを置く明朝の国名も明教 (マニ教) を由来。
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ー(・・? ー?→

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前回お話 と 今回お話 てんびん座 いったい何の関係があるのか?思う方もいるかもしれません。東北アジアでは霊』に始まり「礼」に終わる 自転車 そうした政治を何度もデジャブしている てんびん座 人々が「礼」に傾くと『霊』は忘れ去られた時代もあったようです。

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竹。。

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